国産コーヒー栽培の歴史は長く明治時代まで遡ります。大まかに日本のコーヒー栽培史は近代(明治〜昭和初期)と現代(昭和後期〜)に分けられます。
そこで明治8年、国の勧農政策でインドネシア(オランダ領)から琉球にコーヒー苗が入り日本で最初にコーヒーが植えられた沖縄のコーヒー栽培史を明治期から昭和までをご紹介します。
むかし沖縄は戦争で地上戦がありましたが、戦火を生き抜いた古木コーヒーが今も沖縄に残っています。まさに奇跡のコーヒーの木と言えます。
1875年(明治8年)12月、沖縄に112本のコーヒー苗がやってきました。
コーヒー苗は全7品種あり一番多い品種で60本ありました。コーヒー以外にオリーブやタマリンドなど熱帯植物が計180本運ばれてきました。
当時は日本各地で海外植物の試験栽培が行われており例えば東京でも現在の新宿御苑は「新宿試験場」港区には「三田育種場」もありました。
様々な植物を輸入する中でコーヒー栽培を推し進めたのが「榎本武揚」でした。明治政府に沖縄でのコーヒー栽培を提案しました。
沖縄にきた112本のコーヒー苗は首里などで育てられました。その中に現在の識名園(世界文化遺産)も含まれていたと言われています。
1879年(明治12年)3月、廃藩置県で琉球藩が終わり沖縄県となりました。
それにより職を失った琉球士族が首里のコーヒーの木を沖縄北部(本部半島)に持っていき移植しました。
本部半島で特に本部町(伊豆味)と今帰仁村(呉我山)がコーヒー栽培の文献記録が多い場所であります。
この2地域の特徴は岩山(円錐カルスト)が多い沖縄随一の台風に守られるエリアです。また大井川の源流域で水が豊富で比較的寒暖差のある地域環境です。
このような特徴は果樹栽培の適地であり明治中期以降になると様々な植物が集まる県内最大規模の試験農場地帯となっていきます。
1924年(大正13年)最後の琉球国王の四男「尚順」が植物園「桃原農園」を開設しました。
尚順はグルメ男爵とも言われ沖縄で珍しい果樹栽培をおこない産業化を模索していました。
沖縄には明治期に入ったコーヒー(文献では沖縄種)がすでにありましたが、尚順は珍しいハワイのコーヒータネを入手し栽培を試みました。
結果、ハワイ品種の栽培に成功したもののコーヒー栽培は小規模なものでした。理由として需要がなかったと思われます。
補足
ここまでのコーヒー説明につきまして。正確にはコーヒーは沖縄に新規導入された植物のひとつの位置づけになります。
当初コーヒーは期待の星でしたが、換金作物としては難しかったため脇役的な存在で栽培されていたと思います。
のちに沖縄北部で主役となっていくのは「パイナップル、お茶、かんきつ類」になります。
1934年(昭和9年)木村珈琲(現キーコーヒー)が沖縄でコーヒー農場を開設しました。
当時、木村珈琲は台湾と沖縄でコーヒー栽培事業に乗り出しましたが、台湾でサビ病の発生や戦時下と重なりコーヒー栽培を継続することが難しくなりました。
ここで近代の沖縄コーヒー栽培の歴史が終わります。
現代のコーヒー栽培史
1980年(昭和55年)中部農林高校の和宇慶先生が退職を機にコーヒー栽培に着手します。
当時、移民先のブラジルで珈琲栽培されていた「シモサカ農園」を訪ねコーヒーの栽培方法を学びタネを持ち帰りました。
その後、和宇慶先生はコーヒー栽培の普及に尽力され「沖縄コーヒーの父」として語り継がれています。
今では多くの沖縄コーヒー農家で和宇慶先生のコーヒーが育てられています。下記の動画は和宇慶先生のご親戚の方から当時のお話をお伺いできました。
昭和のコーヒー栽培は総じて経済栽培に挑戦というものでした。平成になると沖縄諸島のコーヒー栽培者は徐々に増え近年は本土でコーヒー作りされる方も増えてきました。