榎本武揚(1836~1908年 天保7年~明治41年)えのもと たけあき
映像:東京農業大学(世田谷キャンパス)
★榎本武揚とコーヒープロジェクト
榎本武揚というと郵便マーク(〒)を決定したり北海道開拓(クラーク博士とも接点有)等、近代日本を築いた人で知られますが、明治政府で文部大臣時代に農学校創設(現東京農業大学)そして外務大臣、農商務大臣時代にはメキシコでのコーヒープロジェクトを計画、また小笠原で国内初のコーヒー栽培の実施等コーヒーに夢を追った政治家でありました。
★榎本武揚はコーヒー栽培を何故やりたかったのか?
コーヒーが好きだったかもしれませんが、日本人で数少ない海外のコーヒー事情を目の当たりにしている経験から最初は日本(小笠原)でコーヒー栽培を試み、後にメキシコの外資導入政策で広大な土地の権利を日本に勧めてきたのを機に、榎本は今でいうTPP推進者で開拓思想と日本の物産開発の必要性からメキシココーヒープロジェクトを実行したものと思われます。
★榎本武揚のコーヒーに関するインプット・アウトプット
【インプット】
①コーヒーとの出会い 1856年~
20歳の時、コーヒー伝来地の長崎で2年間過ごす(長崎海軍伝習所入学)
長崎は出島がありオランダ交易の場所であったため、古くからこの地はコーヒーを嗜む人たちがおり流通もしていたと思われます。
榎本は長崎でコーヒーの味を知り興味をもったと思います。
②オランダ留学(4年間)1863年~
江戸幕府初の海外留学生としてオランダで過ごす。
オランダの町は、多くのカフェがあり日常的にコーヒーを飲む外国人の姿に驚いたと思います。
また、オランダには恩師がいました。オランダ海軍大臣のカッテンディーケ(元長崎海軍伝習所教官)や医師ポンペ(元長崎医学伝習所教官)異国の地で多くの人脈を築いたと思われます。
留学で多くの知見を得ましたが、特に海外の富国強兵、植民地政策および殖産ビジネスを肌で感じ、後の開拓につながったのかもしれません。
③世界的なコーヒー生産地ジャワ(バタヴィア)でコーヒーの木を見る
オランダ渡航中、ボゴール植物園(オランダの農業研究およびプロモーションセンター)訪問
ボゴール植物園とは?
1817年開園された東洋最大規模、最大栽植種を誇る植物園
インドネシア・ジャワ島中西部のボゴール市にあり育種研究の歴史的遺産でコーヒー等の普及はこの植物園なくしては語れないです(入園料約200円(2017年8月現在)
一時期、ジャワは日本管理下にあり現地の植物管理に黒田三郎(詩人)の姿も
1942年~日本軍がジャワ占領
1943年~1945年 中井猛之進がボゴール植物園長就任(中井はその後1949年に日本の国立科学博物館長就任)
【アウトプット】
※日本のコーヒー栽培史で「新たな史実」が見つかりました。
※下記からは「新たな史実」前のものになります。
①熱帯植物栽培の建議書を提出
日本でもコーヒーやキナを栽培して物産開発しようと建議した。
明治政府は建議に応じて、1875年(明治8年)オランダにコーヒーの苗木500本を発注しました。
翌年4月にジャワ島から苗木が横浜港に届く
②東京都小笠原(父島)でコーヒー栽培
小笠原に移民を送り熱帯植物栽培しようと建議した。
小笠原は1876年(明治9年)日本領土と国際的に認められ小笠原でのコーヒー栽培が始まる。
※補足 田代安定(日本の熱帯植物栽培のパイオニア)の足跡
1882年(明治15年)~沖縄(名護・大宜味・国頭)で熱帯植物の試験栽培
1889年(明治22年)~南洋植物調査(日本初の熱帯植物調査)
1894年(明治27年)~台湾調査
1902年(明治35年)~台湾恒春熱帯植物殖育場設立(後に主たる日本のコーヒー研究農場)
1915年(大正04年)~大正天皇にコーヒー献上
1928年(昭和03年)~昭和天皇にコーヒー献上
③榎本武揚メキシコ殖民団(メキシココーヒープロジェクト)
1897年(明治30年)メキシコ(チアパス州)に向け36名の殖民団が横浜を出港、現地でコーヒー栽培に着手。
メキシコではすでにドイツ人移住者によってコーヒー栽培が始められていました。
日本は欧米と違いコーヒーの国内需要は見込めないとコーヒー栽培に対する反対意見もありましたが、それでもメキシコの土を日本に送り土壌分析したりコーヒー専門家を雇い入れしたと言われます。
しかし、現地でコーヒー種子の調達がうまくいかず、作物栽培に適した場所の選定に困難を極めさらに離脱者が出ました。
また、榎本自身も足尾鉱毒事件で農商務大臣を引責辞任といったことが道半ばにしてこのプロジェクトが終わったと言われています。
★多くの移民者が何故早期離脱したのか?
このコーヒープロジェクトが終わった大きな原因は低予算(支援が薄い)にあったと思います。
資金不足で移民者は思うように農業ができず夢を失い離脱者が出たと考えられますが、支援が薄い背景には政府の政策(南進論)や藩閥等、時代背景が悪かったのかもしれません。
★低予算でおこなうと危険なコーヒー栽培
コーヒーに限らず果樹栽培の難しいところは、例えばコーヒーは種から育てまとまった量の収穫まで5年かかります。
最初の5年間はコーヒー以外の作物を作り生活できなければいけませんが移民者たちはそれができなかったと思います。
理由として
①安定した水の確保
②いたずら・盗難・風土病対策
③種子・苗木の現地調達
★ドイツと日本の違いは?
ほぼ同時期にドイツ人がコーヒー栽培をして大成功していますが
理由として
①コーヒー栽培に熟知した生産者
②苗木入手が容易
③潤沢な資金
いわゆる ヒト・モノ・カネ 三拍子が揃っていたからだと思います。