日本で初めてコーヒーを飲んだ人

日本で初めてコーヒーを飲んだ人

最初に珈琲を飲んだ日本人は誰か?(コーヒー解体新書)

日本で初めてコーヒーを飲んだ人とは・・・その人物に迫りました。

現在、通説的人物も存在しないため、江戸時代中期のコーヒーキーパーソン 吉雄耕牛(よしお こうぎゅう)を提唱したいと思います。

職業は出島の蘭通詞(オランダ語の通訳)ですが医師であり蘭学者でもあります。

吉雄耕牛は18世紀中期に日本で初めて珈琲を飲んだ人物であることが極めて高く、またコーヒーを広めようとした第一人者であります。

※ 吉雄耕牛の画像(長崎歴史文化博物館蔵)は上記動画にてご覧いただけます。
※ 出島とは1634年江戸幕府の鎖国政策の一環として長崎に築造された人工島で1641~1859年まで対オランダ貿易が行われていた。

吉雄耕牛が日本で初めて珈琲を飲んだ人かもとした理由

はじめに

☆ 歴史好きが書いたものです。内容については正確性に欠ける部分があります。
☆ 新たな史料が出てきて「吉雄耕牛」でない可能性もあることをご了承ください。
☆ 諸々の説があり通詞以外で「平戸説・丸山遊女・出島商人」が考えられますが、関連付けできる史料が発見できず除外しております。

コーヒーに関する文献(史料)要約しています

1706年「オランダ商館長日記」 日本にコーヒー豆を持ち込む

1724年「和蘭問答」 洋書の翻訳でコーヒーを「唐茶」と記している

1776年「日本紀行」 二、三人の通詞がコーヒーの味を知るのみである

1782年「万国管窺」 コッヒィは豆科の植物でなく木の実である 

1783年「紅毛本草」 古闘比以(コヲヒイ)の効能や飲用法を紹介した訳本

1794年「北槎聞略」 ロシアの食習慣でデザートとして「コーピ」

1795年「長崎聞見録」 かうひいの効能等紹介

1797年「長崎寄合町諸事書上控帳」 丸山遊女がオランダ人からもらった品物に「コヲヒ豆」

1797年「延寿王院鑑寮日記」 太宰府天満宮への献上品に「紅毛コヒイ」

1803年「蘭療方・蘭療薬解」 可喜(珈琲)の主効が書かれた蘭書の翻訳本

1804年「瓊浦又綴」 日本人初のコーヒー飲用体験記「カウヒイ焦げくさくて飲めん」by大田南畝

1816年「哥非乙説」 日本初のコーヒー論文 「珈琲」の漢字を作字した宇田川榕菴

上記史料の中で1776年の「日本紀行」がポイントになります吉雄耕牛が飲んだVOCコーヒー

出島には限られた職業人しか入ることができない中で最もオランダ人との接触機会がある職業は通詞です。

1776年に「二、三人の通詞だけが珈琲の味を知る」というのが当時の現状のようです。

通詞(つうじ)とは

通詞とは通訳者のことですが、仕事は通訳以外に翻訳・臨検・貿易事務等もして昼夜交代勤務でした。

通詞は世襲制でおおまかに大通詞、小通詞、稽古通詞の職位があります。

二、三人の通詞とは

二、三人の通詞とはおそらく名家と言われる「吉雄家 本木家 今村家」の中にいると考えられます。

吉雄家 大通詞の吉雄耕牛が本命

1776年の「日本紀行」を書いた人物はオランダ商館医のツンベルクです。

ツンベルクと相互教授関係にあったのが、吉雄耕牛で日本のコーヒー事情等は吉雄耕牛が話伝えたものと思われます。

また、吉雄耕牛は1739年から歴代オランダ商館医から直接医学を学んでいたので過去にさかのぼっても誰よりもコーヒーを口にできた人物と考えられます。

※ 史料からツンベルクは珈琲を嗜好品として携帯している
※ 1692年オランダ商館医ケンペル(出島三学者のひとり)の史料には珈琲記述なし

ツンベルクが一番信頼を寄せた日本人が吉雄耕牛

ツンベルクの日本滞在期間は1.5年です(1775年~出島12か月、江戸参府4か月

2人は長崎から長旅の出張 江戸参府でも苦楽を共にし信頼を築いてきました。

そんな彼らのエピソードとして闇取引をしています。

自腹で日本の古銭等(禁制品)と引き換えに梅毒の治療薬と治療法をツンベルクから教えてもらいました。後に吉雄耕牛は梅毒治療で財を築きます

ツンベルク赴任後から動き出した日本のコーヒー事情

文献を見て頂くとわかりますが、1776年の「日本紀行」を境にコーヒーに関する史料が出てきます。

偶然かも知れませんが、私の推測は、ツンベルクは商館医として1775年に日本赴任しましたが、赴任前はアフリカやインドネシアで植物研究をしていた植物学者です。

コーヒーの植物学・精製・飲用法や効能等の知識を吉雄耕牛らに伝授したと考えられます。

コーヒーを知った吉雄耕牛 その後の行動とは?

吉雄耕牛は副業で医療活動をしており日本で初めてコーヒーを薬として処方しました。

また、自宅2階にサロン(オランダ座敷)を作り蘭学者達にコーヒーも振舞っていました(コーヒーハウス)

そんな吉雄家に日本各地から蘭学・医学を学びに多くの人が集まりました(吉雄スクールの門弟は1000人を超えていたと言われています

その効果もあってか、出島周辺で徐々にコーヒー飲用が広がっていきました。

コーヒー党のシーボルトが赴任

1823年 シーボルトがオランダ商館医として出島に赴任しました(吉雄耕牛の息子がシーボルトの通訳をする

そのころには長崎でコーヒー党が増えていましたが、まだまだ日本人の口に合わず大きな広がりにはなっていません。

シーボルトが言いました!

「日本でコーヒーが普及しないのは実に驚くべきことだ」

「コーヒーを長寿に効くと宣伝すれば、もっと普及するであろう」

当時の珈琲は安いものでなく流通していないことも一因にありますが、シーボルト赴任後、徐々にコーヒーの認知が日本全国にされコーヒー飲用者が増えていくことになります。

話は飛びますが、その後…

1878年(明治11年) 日本で最初のコーヒー栽培が東京都小笠原村(父島)でおこなわれ国産コーヒーの生産に一定の成果を出す。

1897年(明治30年) 日本人によるメキシコでのコーヒー栽培着手(榎本武揚メキシコ殖民団

1899年(明治32年) 日本人化学者(カトウ・サトリ)がインスタントコーヒーを発明

1924年(大正13年) 沖縄にコーヒーの木が持ち込まれ試験栽培はじまる(沖縄産コーヒーが飲めるようになったのは1980年代です

国産コーヒーの歴史

以上、吉雄耕牛はコーヒーに関する深い知識や誰よりもコーヒーが入手でき飲める環境にあったこと、そして関連付けできる史料の存在が日本で初めてコーヒーを飲んだ人であるという見解になります。

最後に当時の蘭学者たちは異国の食文化や最新医学等を世に伝え日本を近代化への道に誘う存在であったと思います。その中でも吉雄耕牛の功績は大きく歴史に埋もれた偉人だと思いました。

参考文献
片桐一男:『江戸の蘭方医学事始 阿蘭陀通詞・吉雄幸左衛門耕牛』2000年 丸善ライブラリー