沖縄より早く収穫シーズンに入る台湾
沖縄コーヒーも赤く実が色づき収穫できるコーヒーの木もぽつぽつとありますが、台湾のほうが収穫量などから沖縄より1か月ぐらい早い感じです。
台湾は大きな山がありますので標高の違いでコーヒーチェリーの色づきや豆の大きさ、硬さが違います。
下記はコーヒーの実の収穫後の様子になります(パルプドナチュラル法)
コーヒーチェリー収穫後
台湾珈琲の歴史
はじめに
台湾にはもともとコーヒーの木は自生していないため外国から持ち込まれることになります。
台湾産コーヒーの誕生(最有力説)
田代安定の報告書「熱帯植物殖育場報告」によると、1884年イギリス人がフィリピンのコーヒー苗木を台北に植えたのが最初と言われています。
オランダ統治時代(1624年-1662年)
オランダの統治時代に台湾でコーヒー栽培を試みた可能性はありますが、オランダは1700年前後にジャワ島をコーヒー生産地として栽培に初成功という歴史があります。よってこの時代に台湾コーヒーの誕生は史料も確認できないことから考えにくいです。
日本統治時代(1895年-1945年 明治28年-昭和20年)
1902年(明治35年)恒春に熱帯植物殖育場を創設してコーヒー等の試験栽培が始まる(日本の小笠原コーヒーの種子も持ち込み栽培される)これを機に台湾は東アジア最大のコーヒー生産地となりましたが戦争により衰退していく。
台湾における本格的なコーヒー生産の始まり
熱帯植物殖育場でコーヒー試験栽培に成功
↓
台湾人、日本人移民によるコーヒー栽培者が増える
↓
日本の民間企業による大規模栽培が始まる(住田物産、木村コーヒー等)
日本統治時代、国策でコーヒー栽培が始まり生産量は年々増えていきました。台湾で作られたコーヒーは日本で国産と言われていたようです。
東京勧業博覧会に出品される
1907年(明治40年)東京府主催で開催された勧業博覧会に出品される。
天皇献上コーヒー
1915年(大正04年)大正天皇にコーヒーが献上される
1928年(昭和03年)昭和天皇にコーヒーが献上される
コーヒーさび病の発生
1933年(昭和8年)台湾で大規模なコーヒーさび病が発生しコーヒーの木は伐採される。
熱帯植物栽培のパイオニア 田代安定
沖縄と台湾において旧慣や植物調査を行なった元官僚で後に台湾総督府の技師となり熱帯植物殖育場を設立。植物学や民俗学の発展に貢献されました。
田代安定の足跡
1882年(明治15年)~沖縄で熱帯植物の試験栽培
1889年(明治22年)~南洋植物調査(日本初の熱帯植物調査)
1894年(明治27年)~台湾調査
1902年(明治35年)~恒春熱帯植物殖育場設立(田代安定が建議)
台湾コーヒー農園視察とテロワール
台湾というとお茶のイメージがありますが、知る人ぞ知るコーヒーの生産地であり多くの咖啡農園があります。
日本でコーヒーの漢字は「珈琲」 台湾では「咖啡」と書きます
台湾の主要コーヒー農園を見ると西側(台湾海峡)に多く東側(太平洋)が少ない傾向です。総生産量は1000t前後あると思われます(参考:ブラジル300万t)
台湾は1884年(明治17 年)に、フィリピンから苗を輸入しコーヒー栽培が始まりましたが、1933 年(昭和8年)、大規模なコーヒーさび病が発生しコーヒーの木の殆どが伐採された歴史もあります。
古くは日本向けにコーヒー生産がおこなわれ昭和天皇に献上もされておりました。近年は生産量が増加し日本を含む世界市場への販売に向け官民一体となった取り組みが見られます。
台湾は2012年、USA today「世界10大コーヒー都市」に Taiwan Coffee が選ばれるなどコーヒー文化、コーヒー生産ともに注目されております。